The Maestro of Conception, KENZAN is here |
着想のマエストロ 乾山 見参!展 |
尾形乾山〔深省〕(1663〜1743)は、絵師・尾形光琳の弟として京都の裕福な呉服商 「雁金屋」 に生まれ、恵まれた文化的環境に育ちます。
しかし、早くから隠棲の志が強かった乾山は、20歳代後半には仁和寺門前に隠居し、野々村仁清に作陶を学びました。 そして元禄12年(1699)、京都の北西・鳴滝泉谷に窯を築き、本格的に陶工としての活動を始めます。
窯の名は、京の乾の方角にあたることから 「乾山」 としました。 |
呉服商・雁金屋は徳川秀忠夫人や後水尾院の中宮・東福門院の御用を務めた豪商で、有力町衆として代々芸術的な活動も行ってきました。 さらには本阿弥光悦や樂家とも血縁関係を持つなど、文化的環境に恵まれた環境が乾山自身の美意識に大きな影響を与えたと言われます。 |
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着想のマエストロ 「乾山 見参!」展 |
5歳年上の兄は、琳派の大成者・ 尾形光琳 です。
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「展示構成」 |
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「展示構成」 |
第1章 乾山への道 ― 京焼の源流と17世紀の京都 |
第3章 「写し」 ― 乾山を支えた伝統と異国趣味 |
第5章 彩りの懐石具 ― 「うつわ」 からの開放 |
『乾山焼―知とエスプリの饗宴―』 荒川正明(学習院大学教授) ―図録からの抜粋文章― |
…尾形乾山の陶工として仕事の数々をみていくと、やや大げさな表現にはなるが、江戸時代前期における日本陶磁の知と技の集積、いわば百科事典を編むような側面もあったのではないかと思われる。… 例えば、桃山陶器の織部焼や古唐津の再現に早くも取り組んでおり、京の陶工としては前人未到の磁器への挑戦も行っていた。 つまり、知識を実際の作業を通じて具現化し、一方で実際のモノを分析して知識に置き換え、情報を蓄えていたのである。… 17世紀後半になると、寺院に庇護された御用窯的な窯、たとえば御室窯(仁和寺領)、清水焼(清水寺領)、音羽焼(妙法院領)などが次々に没落し、規模にまさる洛東への窯場へと小さな窯が多数吸収されていった。 京焼が、茶碗や茶人、水指などの茶陶を中心とする生産から、日常什器の生産へと切り替えられる時代の到来である。 このような京焼の量産化の時代に、乾山はあえてその時流に抗うように多品種の少量生産に励んでいく。 その姿勢には、採算性を平気で度外視していく、彼の業のようなものを感じざるを得ない。…近世・京焼の歴史は、このような活動を展開した乾山を中継地点として、17世紀までの京焼の伝統が乾山へと流れ込み、江戸時代中期から後期以降の京焼は乾山から、例えば仁阿弥道八などの革新的な陶芸が流れ出していったようにも見える。…乾山はもはや単なる才能豊かなアーティストという存在ではなく、京焼という世界を構築する 「知」 と 「技」 を集積して後世に伝えた、まさに京焼・中興の祖と位置づけすることができるであろう。… |
尾形乾山(1663-1743) 関連年表から抜粋 |
1663( 1歳) 尾形乾山(権平・寛三郎)雁金屋に生まれる。 |
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参考資料:NEWS RELEASE No.sma0009、着想のマエストロ「乾山 見参!」図録、他 |
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